Coffee Column - The world history




 17世紀から19世紀にかけての300年間で、コーヒー栽培は世界中に広まっていきました。 アラビア半島からインドネシアへ、カリブ海の島々へ、中南米諸国へ。 しかし、それは人々の平和な営みの産物ではなく、ヨーロッパ諸国による過酷な植民地支配と、熾烈な覇権争いの結果によるものでした。 オランダ、イギリス、スペイン、ポルトガル、フランス……。 この時代、列強はこぞって植民地の獲得に乗り出し、武力と経済力、あるいは宗教の力によって、先住者たちから父祖の土地を奪い取っていったのです。 それがこの時代の国家的正義でした。
1820年のドイツ連邦。二大国のオーストリア帝国(黄)とプロイセン王国(青)は連邦の国境線(赤)外にも領土を有している。  ところが大国でありながら、そんな時代の流れに取り残されてしまった国が、ヨーロッパにひとつありました。 ドイツです。もっとも、当時のドイツは統一されたひとつの国家ではなく、35の君主国と4つの自由都市からなる連邦体に過ぎませんでした。 カトリックとプロテスタントが激しく争った「三十年戦争」の結果分裂し、 連邦会議によってかろうじて結びついていたのです。当然、国力は他の列強には遠くおよびません。 そのため、ドイツ諸国では国内で消費するコーヒーをすべて他国から輸入するよりなく、 それが通貨の国外流出の一因となっていました。

Friedrich II  フリードリヒ大王として知られるプロセインのフリードリヒ2世は、こうした事態に憂慮を深めました。 そこで大王は1777年、「コーヒー禁止令」を発布。 コーヒー需要の拡大は貿易収支の悪化を招いたばかりでなく、国内で生産されるビールの消費量にまで影響を及ぼしていたのです。 フリードリヒ2世自身、大のコーヒー好きだったそうですが、コーヒーに重税をかけ、国民にドイツビールを飲むことを奨励しました。 それでもコーヒーの愛好者が減らないと、こんどはコーヒーの焙煎を王室のみでおこなうこととし、それ以外での焙煎をいっさい禁じてしまいました。 この禁止令は、その後20年余りに渡って続けられることになります。 ドイツではこののち、ナポレオンによる大陸封鎖の下で「代用コーヒー」なるものが登場しますが、 この考え方はこの時に生まれ、盛んに研究されたものだったのです。
 そんなわけで、ドイツ人のコーヒー好きは今も昔もかなりのもの。 ドイツを代表する作曲家で、音楽の父として知られるJ・S・バッハも大のコーヒー好きで、コーヒー・ブームを題材にした楽曲まで残しています。 作品はカンタータと呼ばれる歌劇で、流行のコーヒーに夢中になっている娘とその父親とのコミカルな掛け合いで構成されています。
J・S・バッハ
♪ ああ、コーヒーの味の何と甘いこと!
   千のキスよりまだ甘い、
   マスカットよりもっと柔らか。
   コーヒー、コーヒー、コーヒーなしじゃやってけない。
   私を何とかしようと思ったら、
   コーヒーを飲ませてくれれば、OKよ。

   カンタータ211番(BWV211)~ J・S・バッハより

 この作品には正式には「Schweigt stille, plaudert nicht(おしゃべりをやめて、お静かに)」というタイトルが付けられていますが、 一般には「コーヒー・カンタータ」として知られています。 ドイツというとビールのイメージの方が強く、あまりコーヒーを連想することはできませんが、 じつは今日、ドイツはアメリカに次ぐ世界第2位のコーヒー消費国。 そんなドイツ人のコーヒー好きは、じつは200年以上も前にすでにはじまっていたのです。